Question 1
以下は、致学を学ぶ人に向けて書かれた文章である。
よく<b>①「分かる」とは「分ける」ことだと言われます。</b>みなさんの頭の中に、たくさんのラベルがつけられた「箱」があるとイメージしてみてください。みなさんは郵便局員のように、入ってくる情報に対して「これはこっちの箱、これはあっちの箱」と仕分けをしていきます。新しい情報を頭の中のしかるべき(注1)「箱」に入れることが「分かる」ことであり、どの箱に入れるべきかを的確にガイドしてくれる説明が、いわゆる「分かりやすい説明」というわけです。
しかし、もしやってきた情報が、みなさんに届いたとしましょう。それは、みなさんの持っているどの箱にも分類できないようなものです。「分けられない」のですから、「分からない」。その「分からない」状態でいることに、私たちは我慢できなくなってしまうのですね。そんなとき、その概念(注2)を手近な箱に無理やり押し込んでくれる説明があると、それを「分かりやすい」と感じてしまいがちです。でも、それはみなさんを安心させるための、その場しのぎの(注3)説明。確かに分かったつもりにはなれるでしょうが、誤った箱に入れられた情報は二度と顧みられる(注4)ことはなく、本質的な(注5)理解からは永遠に遠ざかったままになってしまいます。<b>②これ</b>が、「分かりやすさ」のとても危険な落とし穴なのです
学習においてとても大切な姿勢は何か。それは、「分からないを分からないものとして一旦受け入れるということ」だと、僕は思うのです。言ってみれば、「分からない」というラベルのついた「箱」を作り、行き場のない情報はひとまずそこに放り入れておくということです。もちろん、それは少し居心地が悪いことかもしれません。でもその違和感(注6)をうまくいなしながら、ときどきは箱の中をチラチラと眺めながら先に進んでいくと、不思議なものに、「分からない」の箱に入れておいたいくつかの情報が結びつき、きちんと意味を持ち始める日がくるのです。頭の中にその概念をおさめる新しい「箱」が立ち上がる、これが真の「エウレカ」「分かった」の瞬間です。「分からない」は、学びの寄物ではありません。むしろ学びにおいてなくてはならない、重要な通過点なのです。
(注1)しかるべき:適切な
(注2)概念:ここでは、意味内容
(注3)その場しのぎの:とりあえずの
(注4)顧みる:振り返る
(注5)本質的な:ここでは、本当の
(注6)違和感:何か違うという感覚
なぜ【①「分かる」とは「分ける」】【ことだと】【言わ】【れる】のか。
【②これ】とは何か。
筆者が言いたいことは何か。