問題 1
本というのは、人間と同じようなものだ。一律の価値によって優劣を決めることはできない。人気者がいるのと同じように、ベストセラーがある。嫌われ者がいるように、誰からも手に取られない本もある。だが、どれもがそれぞれの価値を持っている。それを求めている人の手に求めているときに渡れば、それは良書になる。
それゆえ、私はインターネットの書評サイトなどで、まるで自分を神であるかのように本の優劣を断定しているものには激しい抵抗を感じる。もちろん、書評をするのは悪いことではない。本を批判したりほめたりするのも、もちろん大事なことだ。だが、あくまでもそれは、その人の知識と関心と人柄によっての判断でしかない。つい神の立場でものを言いたくなる気持ちはわからないでもないが、それはあまりに傲慢というものだろう。
私の本も、インターネットの書評サイトでかなり叩かれているものがある。それはそれでやむをえないと思っている。ある程度売れると、それをけなしたがる人間がいるものだ。本をけなすと、自分が著者よりも偉くなったような気がするのだろう。私自身も本を書くようになる前、いや、正直に言うとある程度売れる本を出すようになる前、他人の本をずいぶんけなしたものだ。
ただきわめて心外なのは、ないものねだりをしている評があまりに多いことだ。たとえば、私は<b>ある参考書</b>を出している。その趣旨としていることは、「大学の小論文・試験に何とか合格できるだけのレベルの小論文が書けるようにするため、最低限これだけの知識は持っていてほしい」という知識を整理した参考書だ。だから、私はその本の中では、敢えて難しいことは書いていない。ところが、の参考書を酷評する(注)書評がある。そして、その評の中には「この本を読んでも、かろうじて合格するくらいの力しかつかない」と書かれている。
私は、まさしくかろうじて合格するくらいの力をつけるためにその本を書いているのだ。かろうじて合格すれば、その本は最高の良書だろう。私がそのような意味で敢えてカットしたことを取り上げて、それが書かれていないからと批判されても、こちらとしては困ってしまう。
そのような身勝手な書評がなんと多いことか。知識のある人間が入門書を幼稚すぎるとけなし、知識のない人間が専門書をわかりにくいとけなす。しかし、それは単に自分の背丈にあっていない本を求めただけのことに過ぎない。きちんと自分の背丈にあった本を探して買うのが、読者の務めだと、私は思う。
本について語るからには、あらゆる本に愛情を持つべきだと私は考えている。そうしてこそ、本を批判する資格を持つと思うのだ。
(樋口裕一『差がつく読書』による)
(注)酷評する:ひどく厳しい評価を下す
筆者は、どのような書評が傲慢だと感じているか。
【ある参考書】について、筆者が心外だと感じたのはどのような書評か。
筆者によると、本が良書と言えるのはどのような場合か。
本を批評する人に対して、筆者が言いたいことは何か。